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悲劇の副将軍 「平 重衡」

兵庫大学附属須磨ノ浦高等学校 西海淳二


山陽電車「須磨寺駅」改札口北側に、『平重衡とらわれの遺跡』の碑が建つ。ここに腰掛けの松といわれる大きな松があったため、『平重衡とらわれの松跡』とも呼ばれる。

碑の側の立て札によると「生け捕りになった重衡を、土地の人が哀れんで濁り酒をすすめたところ、たいそう喜んで『ささほろや波ここもとに打ちすぎて須磨でのむこそ濁り酒なれ』との歌を詠んだという。


立て札の記述が史実かどうかは別として、今日まで脈々と歴史・史跡が受けつながれてきた要素として、一つは中央・都を中心に歴史的事件や文学を通して流布する、もう一点は史跡を有する地元で独自に育んできた人々の熱い思いである。前者を縦糸に、後者を横糸として紡ぐことによって、歴史・史跡は人々の心の中で成長しながら生き続けるのである。ここでは『平家物語』を通して重衡像を少々紐解くことにしよう。


寿永三年(1184)二月七日、本三位中将・平重衡は、生田の森の副将軍であったが、敗走の途中、追われて味方の船にも乗れず、馬をも失い、自害を覚悟したところを、当地で庄四郎高家によって生け捕りになった大事件に、この碑は由来する。それも乳母子盛長が、主人の駿馬「夜目無月毛」を奪って逃亡するという不幸によって、不覚にも生け捕りにされたのである。

一の谷合戦で討ち死にする武将は敦盛、忠盛をはじめ多くいたが、公卿では三位通盛ただ一人、そして生け捕りは重衡だけであった。以上は『平家物語』作者による平重衡像の一端ではあるが、この記述に注目したい。というのも、藤原(九条)兼実の日記『玉葉』の寿永三年二月九日の条に、

「今日、三位中将重衡入京、褐直垂小袴を着す云々、即ち土肥二郎実平の許に禁固す云々」

また翌十日の条にも、

「定永又語りて云ふ、重衡申すに云ふ、書礼使者に副へて、重衡の郎従と云々、前内府の許に遣し、剣璽を乞ひ取り進上すべしと云々、此の事叶ふべからずと雖も、試みに申請に任せて御覧ずべしと云々」

とあるところから、朝廷にとっても、また源平にとってもこの「重衡生け捕り」まさに大事件であったにちがいない。


ところが前述の通り『平家物語』では平重衡個人の問題として処理しようとする。なぜであろうか。

平重衡は『平家物語』では、「巻一・御輿振」に初出し、「巻十一・重衡被斬」までの二十九章段に登場するが、結論として、『平家物語』作者は、彼を通して平家であるがために、滅び行く運命を背負った人間の姿として、同情的に記述することにより、勲功のみに戦う源平武将たちだけを描くのではなく、清澄な精神を持ち続ける人間としての一途さをも描こうとしている。

そこには読む者も、滅び行く者を運命的なしがらみとしては割り切れない感傷がいつまでも残るのは不思議である。そこで『平家物語』の「巻五・奈良炎上」と「巻十・海道下・千手」そして「巻十一・重衡被斬」を通して、平家物語作者が重衡をいかに描いたかを次に考えよう。


まず「巻五・奈良炎上」では、治承四年十二月二十八日、清盛の命により南都鎮圧に向かったのは大将軍重衡。四万余騎の軍勢で七千余騎の南都大衆と合戦の末、東大寺・興福寺を焼き打ちした。この争乱は古代仏教の象徴である古い大寺が多く消失しただけでなく、古代国家の終焉を意味し、平家による武家社会へと移るが、その一方でこの出来事は、仏敵法敵として、後に奈良・木津川で首を斬られる重衡の運命をも予見させられる出来事である。


『山槐記』にも「十二月二十五日に重衡朝臣が数千騎を率いて発向し、同二十八日奈良炎上」さらに「重衡が凶徒の首四十九持参」とあるため、この争乱のすさまじさは記述以上であったと考えられるが、『平家物語』では「夜戦になって、あまりにも暗いので、頭中将重衡卿が、般若寺の門前に立って、火をつけよ、と命じると、次郎大夫友方が、楯を割り松明にして在家に火をつけた」とあり、重衡の命令の内容を曖昧にし、友方一人の身勝手な判断と記述する。

さらに「同二十九日、頭中将重衡卿は南都を滅ぼして京都へお帰りになる。入道相国ひとりだけは、憤懣も晴れて喜ばれ云々」とあって、大罪人をことさら清盛ひとりに押し付けようとする態度を取る。「父の言葉」を断りきれない重衡への同情による配慮であろう。


次に「巻十・海道下」を見よう。重衡の鎌倉下向は有名な道行文である。道行文とは、主人公が通る土地の名を詠み込むことにより、旅路の進行と主人公の悲哀に包まれた感傷的な旅情を間接的に醸し出す表現法で、鎌倉幕府成立とともに頻繁になった東海道、その東海道を下る同行文は、中世語り物文芸には必須の要素となった。


では『平家物語』作者による、重衡道行文を紹介しよう。(高橋貞一校注『平家物語・下』講談社文庫より)

逢坂山打越えて、勢多の唐橋、駒もとどろと蹈みならし、雲雀あがれる野路の里、志賀の浦浪春かけて、霞に曇る鏡山、比良の高峯を北にして、伊吹の嶽も近づきぬ。心を留むとしなけれども、荒れてなかなかやさしきは、不破の關屋の板廂、如何に鳴海の潮干潟、涙に袖はしをれつつ、かの在原のなにがしの、唐衣きつつなれにしと詠めけん、三河国の八橋にもなりぬれば、蜘蛛手に物をと哀れなり。濱名の橋を渡り給へば、松の梢に風さえて、入江に騒ぐ波の音、さらでも旅は物憂きに、心を盡す夕まぐれ、池田の宿にも著き給ひぬ。
[中略] 佐夜中山にかかり給ふにも、又越ゆべしとも覺えねば、いとど哀れの数添ひて、袂ぞ痛く濡れまさる。宇津の山邊の蔦の道、心細くも打越えて、手越を過ぎて行けば、北に遠ざかって、雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ。その時三位中将落つる涙を押さへつつ、 「惜しからぬ命なれども今日までにつれなき甲斐の白根をも見つ」

とあり、『平家物語』作者は『伊勢物語』や『山家集』の記事を引用しながら、鎌倉に下れば命はないものとの重衡の覚悟を間接的に記すことにより、主人公重衡の悲哀な胸中を読者に最大限の創造をさせる手法をとっている。


次に「巻十・千手」を見ると、千手(千寿)は手越宿の長者の娘(遊君または白拍子)で、鎌倉下向の重衡を饗応する役として扱われている。そこで重衡は、

「普通にはこの樂をば、五条樂といえども、今重衡が為には、後生樂とこそ観ずへけれ。やがて往生の急を弾かん。」

とその胸中を吐露し、琵琶を弾く。一方の千手は、

「一樹の陰に宿りあひ、同じ流れを掬ぶも、皆これ先世の契り」

と朗詠して、互いに心を慰める。『吾妻鏡』(東鑑)の元暦元年四月廿日の条の記述は、平家物語の他の章段における場合よりも一段と似通っている。

しかし『吾妻鏡』は『平家物語』のような千手の感情がない。この文学作品である『平家物語』と『吾妻鏡』との差異は、たんに歴史と文学の差異と見るよりも、頼朝をして「優に艶しき人にておはしけり」と重衡を評させた『平家物語』作者の主人公重衡へのせめてもの同情であろうか。


その後千手は「重衡が奈良で斬られたと聞くと、すぐに様を変え、濃き墨染に身をやつし、信濃国善光寺で修行し、重衡の後世菩提を弔い、自身も往生の素懐を遂げた」ことになっているが、この記述法は、『平家物語』における建礼門院はじめ多くの女性哀話の定石であるため、史実かどうか疑問であるばかりか、ここまでくると、どこまで作者の主人公重衡への同情があったのか、と思わずにはいられない。


また、謡曲『千手』(古名『千手重衡』)では、重衡はいったん奈良へ渡され、その後鎌倉へ渡される。さらに重衡と千手が契り合ったことにもなっている。これらは『吾妻鏡』記述を基にするならば明らかに改編である。< /p>


最後に「巻十一・重衡被斬」を見ると、重衡は守衛の武士をはじめ数千人の大衆を前に「今重衡が逆罪を犯しましたことは、全く私の発意ではなく、ただ世間の掟に従ったためです。この国に生きるものは、みな勅命をないがしろにはいたしませぬ。勅命といい、父の言葉といい、断ることはできません。私がしましたことが、是か非かは仏陀のお見通しくださることです。しかもその報いはたちどころに襲い、私の命はただ今を限りとなりました。[後略] 」と述べ、高声に十念を唱える。 死することを自己の運命として受け入れざるを得ない中、斬られゆく重衡。


『平家物語』作者は、重衡を新中納言知盛のような勇壮な武将としてではなく、滅びゆく平家の運命を一身に担わざるを得ない人間、そして頼朝をして「優に艶しき人にておはしけり」と言わせる武将として、つまり優美な平安王朝的な社会から新たな合理的な精神でしか生き抜けない政治・社会機構への激変を、この重衡の生き方を通して、『平家物語』作者は訴えているかもしれない。

それは、『平家物語』作者の平家一門への同情というよりも一歩進んで、重衡追善供養としての意図があったかもしれない。

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