義経が敢行したとされる鉄拐山南山腹(神戸市須磨区)から赤旗谷への「一ノ谷の坂落し」*。歴史上では、源義経が指揮したこの奇襲作戦が見事に的中し、源平の命運が決まったとされています。

須磨には須磨寺をはじめ、敦盛塚や安徳帝内裏跡、平重衡とらわれの松跡など源平合戦にまつわる数々の史跡が存在し、現在に伝承されています。ここでは源平合戦と須磨に関する由縁について紹介します。

*義経は、神戸市長田区および兵庫区の北方にある鵯越本道から坂落しをしたという説もあります。

[情報資料提供/須磨歴史倶楽部]

1. はじめに ~須磨歴史倶楽部から~

2. 三草山の合戦

3. 生田の森(大手・東の木戸)の戦い

4. 山の手(搦手)の戦い

5. 一の谷(搦手・西の木戸)の戦い

6. 一の谷の坂落し

7. 武将たちの戦史

1.はじめに ~須磨歴史倶楽部から~

平成15年11月、須磨歴史倶楽部が発足し、最初に選んだテーマが『義経の郷土における足跡』であった。来年から放送が開始されるNHK大河ドラマをにらんでのテーマ設定である。

郷土といってもあまり狭い範囲だけを取り上げては断片的になりすぎる。そこで『一の谷の合戦』に焦点を当て、そこに到る義経の進軍経路を丹波・三草山辺りから追い求めることにした。

参考文献には平家物語、玉葉、吾妻鏡を基に、神戸市や新聞社、研究者による様々な刊行物を参照し、メンバー間で度々の議論を重ね、取りまとめた。

特に坂落しの場所については諸説があるなか、

一の谷への進軍路として、高倉台―鉄拐山―一の谷―須磨浦公園―安徳帝内裏跡 のルート

鵯越本道として、明泉寺―会下山―善光寺 のルートを実際に須磨歴史倶楽部のメンバーが踏査し、義経の戦略、戦術等を勘案して、義経の進撃ルートを設定した。

参考文献の著編者、ならびにご意見をお寄せ頂いた皆様に深く感謝いたします。

平成16年12月 須磨歴史倶楽部

主な参考文献

西海淳二 『ようこそ須磨へ!』 須磨歴史倶楽部 平成16年6月

司馬遼太郎 『義経(上)・(下)』 文芸春秋 平成16年2月

杉元圭三郎訳注 『平家物語(九)』(講談社学術文庫) 講談社 平成15年10月

宮尾登美子 『宮尾本平家物語 第四巻玄武之巻』 朝日新聞社 平成15年4月

田辺眞人 『須磨の歴史散歩』 須磨区役所 平成9年3月

安田元久 『源義経』 新人物往来社 平成5年7月

渡辺保  『源義経』 吉川弘文館 平成元年5月

安田元久 『源平の争乱』 新人物往来社 昭和62年6月

小池義人 『滅びの美「敦盛」』 須磨寺 昭和60年7月

田辺眞人 『須磨歴史小事典』 須磨区役所 昭和59年5月

落合重信 『神戸の歴史 研究編 』 後藤書店 昭和55年1月

後藤捷一 『一の谷合戦記』 同人 昭和13年9月

2.三草山の合戦

平氏を追討する鎌倉方は、寿永3年(1184年)1月26日[注1]、範頼と義経が二手に分かれて京都から出発した。範頼軍は兵力2千余騎で京都を南下し、平氏陣の大手(生田の森)に向かう。義経軍は兵力千余騎で平氏陣の搦手(一の谷)を攻略するため京都を西方に向かい丹波路に入る。迎え討つ平氏の軍勢は総勢7千余騎であった[注2]

平氏方では、丹波路を進行している義経軍が一の谷に向かうのか、それとも鵯越(山の手)に向かうのか、予測ができなかった。しかし、いずれに向かっても、必ず三草山を通過しなければならない。そのために、三草山から三木にかけての一帯がきわめて重要な防御地帯となった。

平氏方は平資盛を総大将に、有盛、師盛らが三草山の西、御所谷に陣を張った。これに対して義経は2月4日、千余騎で三草山の東、小野原に到達し、平氏軍と3里を隔てて陣を構えた。義経は夜が明けると平氏軍に強力な援軍が来ることを予測し、その日に夜襲を決行することにした。

しかし、闇の中では動くことができない。山道を一気に進撃し、周辺民家や枯れ草に火を放ち、昼間のような明るさの中攻め入った。明日の決戦を予測して油断していた平氏軍は不意をつかれて混乱に陥ったため、源氏側の圧倒的な勝利に終わった。この三草山の戦いに敗れた平資盛、有盛、忠房らは加古川沿いに逃げ高砂へ、さらに讃岐の屋島に渡った。三草山を脱出した師盛他、2名の武将だけが一の谷の陣に合流した。

[注1] 鎌倉軍の京都の発向は、『玉葉』によると正月26日であるが、『吾妻鏡』では正月29日、『平家物語』では2月4日とある。玉葉は京都在住の藤原九篠兼実の日記であり、鎌倉軍の京都出発をまじかに見ているので信頼性が高いと思われるため、ここでは正月26日の発向とした。

[注2] 平家物語では、平氏軍10万余騎、範頼軍5万余騎、義経軍1万余騎とある。

合戦図(三草山~藍那)

三草山での初戦に勝利した義経は、2月6日、播磨国・三木で兵を2つに分け、義経は約3百騎で鵯越へ向かった。そしてもう一方の7百騎を土肥実平に預けた。土肥軍は三木の志染から明石川沿いを下り、垂水から塩屋に至り、梅ヶ鼻[注3]の一の谷に向かった。

[注3] 現在の境川付近。

3.生田の森(大手・東の木戸)の戦い

範頼軍は京都を出発し、山崎に出て西国街道を通り、昆陽に控えていた。2月5日の夕方に昆陽を出発、西宮から芦屋の浜沿いを西走し、生田の森に近づいた。

平氏方は平知盛を大将軍に、平重衡を副将軍に据え、他に平知章らが布陣していた。平氏軍の防備は厳重で、布引の山脚から海岸に至るまで、二重三重に垣を廻らし、濠を穿ち、逆茂木を並べていた。2月7日[注4]卯の刻(午前6時頃)、源平矢合せが始まった。

まず、範頼軍の河原太郎高直、河原次郎盛直兄弟が先陣の名乗りを上げ、逆茂木を越え、敵陣に入った。しかし、平氏軍の弓の名手、真鍋五郎助光に撃たれる。梶原平三景時は、長男源太景季、次男平次景高、三男三郎景茂とともに5百騎を率いて門を突破した。その後は、源氏の白旗と平氏の赤旗が入り乱れての激闘となった。

4.山の手(搦手)の戦い

三草山での敗戦を知った平氏方は、義経が鵯越本道から攻め入ることを予想し、急遽その方面での防備を固める。氷室神社付近に平教経が陣を敷き、鵯越の出口にあたる夢野を防御し、また平盛俊が長田より白川への道を防御するため古明泉寺(長田丸山の奥)に陣所を設けた。さらに平通盛は鵯越から妙法寺への出口を防御する作戦を執った。

三草山の合戦の後、義経は三木から志染、衝原、東下、藍那へと進み、高尾山の尾根の鵯越本道を進み平氏軍の背後を衝こうとした。しかし、進軍の途中で義経は奇襲作戦を実行することにした。義経は蛙岩付近で再び軍勢を2つに分け、多田蔵人行綱、岡崎四郎義実らに主力230余騎を預け、本道を夢野、古明泉寺に向かわせた。義経は精鋭70騎を率い、高尾山から西南に折れて山中に入り一の谷へ向かった。鵯越本道を進軍して行った多田蔵人行綱らの主力軍は、通盛、盛俊、教経らとの壮絶な戦いで苦戦していたが、義経の「一の谷坂落し」の活躍により搦手(一の谷)が破られ大手も危うくなると、平氏軍は混乱し、海辺に待機する船に向かって逃げ惑う。そんな中、通盛、盛俊、佐々木三郎盛綱ら7騎は乱戦の中で討ち死にしていった。

5.一の谷(搦手・西の木戸)の戦い

三木で義経と別れた土肥軍は、2月7日の午前6時の開戦に遅れまいと進軍し、一の谷・西の木戸口に着いた。しかし、一番乗りは土肥軍ではなかった。先陣の功名をあげようと、熊谷次郎直実とその子小次郎直家、また平山武者所季重が途中で義経軍から離れて、多井畑、下畑を経て塩屋付近に出、既に西の木戸に到着していたのである。

真先に到着した直実は、大声で名乗りを上げた。しかし、まだ夜が明けていないため木戸を開けて出てくる武将はなかった。時機が到来するのを待っていたところ、平山武者所季重が駆けつけてきた。

午前6時頃、直実が改めて大声で名乗りを上げた。平氏方の飛騨三郎景綱、越中次郎盛次、上総五郎忠光、悪七景清ら23騎が木戸を開いて出てきて戦いが始まった。郎党を含めてわずか5騎であった熊谷・平山たちは平氏方の猛攻を受け、小次郎直家が負傷し、平山の郎党一人が討ち取られた。ちょうどそのころ土肥軍が到着し、源氏と平氏の激しい攻防が繰り広げられた。

[注4] もともと2月4日に攻め寄せることにしていたが、この日は故平清盛の命日にあたるので、法事を行わせるためにこの日を避けたとされている。

合戦図(藍那~一の谷)

6.一の谷の坂落し

高尾山付近から山中に入った義経は鷲尾三郎義久の案内により[注5]、獣道を通り、妙法寺の西に出、それから西南に向かい多井畑に出た。義経はようやく鉄拐山に辿りつくと、満身の勇気をふるい家来に攻撃の準備をさせた。これが鉄拐山の東峰の「勢揃いの松」があったとされる場所である。徹夜の進軍で7日早朝、鉢伏山・礒の途(実際には鉄拐山の尾根)に辿りついた。下を見下ろすと急峻な坂となっている。義経が礒の途に姿を現したのは『源平盛衰記』によると午前8時頃とある。既に、一の谷一帯は熊谷・土肥らの軍勢と平氏方との激戦の真っ只中であった。

平氏が陣を構える一の谷は、地形的には前面が海、背後は山肌が絶壁となって迫っている。西へは道が一本通っている狭い海沿いであり、東だけが開け平氏が陣を張っている。平氏が防衛に絶対の自信を持ったのも当然だろう。義経はその鹿しか通らぬという鉄拐山の急坂を騎兵集団で駆け下りるという奇襲作戦を実行したのである。

当時の戦の常道は、まず両陣が対峙して矢合わせを行い、それから両軍突撃して白兵戦となる。白兵戦では互いに名乗りを上げ、一騎打ちにより勝敗を決し、敵の首級を挙げることであった。義経が採った騎兵の集団運用による奇襲作戦という近代戦にも似た戦法は、絶大なる成果をもたらした。義経軍の一の谷西の木戸口背面への突然の乱入は、平氏軍にとって晴天のへきれきであった。

義経はすぐに伊勢三郎に建物に火を放つように命じた。火は西風にあおられて陣中は燃える。一の谷付近の黒煙を望見して、平氏軍は浮き足立った。合戦が始まって6時間の後には、平氏の軍兵は総崩れになってしまった。船に逃げる者、明石や駒ヶ林に逃げる者など続出するが、源氏軍がこれを追撃した。この戦で平氏軍は多くの諸将を失った。

この合戦の重要な目的の一つは、平氏が擁している安徳天皇を迎え入れ、三種の神器を奪取することであった。朝廷方の後鳥羽天皇は三種の神器を保有していないため、正式な即位はできなかったからである。一の谷の合戦で敗れた平氏の総大将・平宗盛は、安徳天皇を擁し、三種の神器を捧持したまま讃岐の屋島へ逃れた。源氏は軍事的には大勝したが、政略的には達成できたものはなかった。

[注5] 『源平盛衰記』では鷲尾経春としているが、この経春については山田東下(神戸市北区)と白川、多井畑(神戸市須磨区)の三つの鷲尾家の伝説がある。

合戦図(一の谷の坂落し)

7.武将たちの戦史

平重衡(本三位中将)須磨浦で捕えられ、京都府相楽郡木津で斬首。
平知章(武蔵守)父を庇い、明泉寺付近(神戸市長田区)で戦死。
平通盛(越前三位)夫婦池(神戸市長田区)で戦死。
平業盛(蔵人太夫)会下山の南(神戸市長田区)で戦死。
平経正(皇后宮亮)生田の森を守ったが、討死場所不明。
平経俊(若狭守)佐備江の堤(神戸市兵庫区)で戦死。
平敦盛(太夫)須磨浦で熊谷直実に討たれる。
平清房(淡路守)討死場所不明。
平清定(尾張守)討死場所不明。
平忠度(薩摩守)駒ヶ林(神戸市長田区)で戦死。
平師盛(備中守)三草山から一の谷に戻り、大輪田泊(神戸市兵庫区)で水死。