歴史を知る
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山伏山神社 | |
この社の祭神は、猿田彦(さるだびこの)命(みこと)と天鈿(あめのうず)女(めの)命(みこと)ですが、そのまつられた由緒は明らかではありません。お宮の入口のカヤの木は、根元に石を抱き込んでいるところから「白川の石抱きカヤ」の愛称で親しまれ、神戸市の名木に指定されています。 カヤの木としては県内有数の巨木です。 | |
住所 | 神戸市須磨区白川 |
安徳帝内裏跡伝説地 | |
安徳天皇は、平清盛の娘の建礼門院徳子を母として生まれた悲劇の幼帝です。1180(治承4)年に2歳で即位しましたが、 1185(寿永4)年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡とともに祖母二位尼にいだかれて入水したと伝えられています。この伝説地には、一時内裏がおかれたとのいい伝えがあり、 安徳天皇の冥福を祈って安徳宮がまつられています。 江戸時代には松尾芭蕉も訪れています... | |
住所 | 神戸市須磨区一ノ谷町2丁目6 一の谷公園内 |
子守神社(釿桐(おのきり)神社) | |
勝福寺と證誠神社の中間にあって、もとは陰堂(こもりどう)であったと考えられています。一般には子守神社と呼ばれており、赤ん坊の夜泣きを防ぐと信じられ、1907(明治40)年に旧大手村内の小祠(しょうし)を合祀した時、釿桐(おのきり)神社と名付けられました。阪神・淡路大震災により全壊しましたが、その後現地で建て替えられました。 | |
電話番号 | 078-731-2743(證誠神社) |
住所 | 神戸市須磨区大手町2丁目5 |
妙法寺 | |
738(天平10)年、僧行基が開基しました。 平清盛が福原遷都の際、平安京の鞍馬になぞらえ、ここを新鞍馬と称して、福原京の鎮守の地として保護したといわれています。本尊毘沙門天は、平安時代の木像で、国指定重要文化財です。毎年1月3日の午後には勇壮な踊りの追儺式が行われます。 | |
住所 | 兵庫県神戸市須磨区妙法寺毘沙門山1286 |
大歳神社(車) | |
646(大化2)年に孝徳天皇が創立したといわれ、もとは三木街道の南の地に鎮座していました。 社殿が非常に壮大であったので「大堂(おおどう)」と呼ばれていたのがなまって、今の「車(くるま)大道(おおどう)」になったといわれています。毎年1月14日の夜には、「お面式」と呼ばれる豊作願いの行事である「翁舞(おきなまい)」が演じられます。 この翁舞は、江戸時代以前... | |
住所 | 神戸市須磨区車字松ヶ原 |
大歳神社(白川) | |
一条天皇の995(長徳元)年、この山村に疫病が大流行したので、須佐之男(すさのおの)命(みこと)を迎えて疫病退散を祈願したといわれていますが、もとは、「トシ」(古語で米を意味する)の神をまつる社です。 | |
住所 | 神戸市須磨区白川字宮ノ西 |
多井畑厄除八幡宮 | |
光仁天皇の770(神護景雲4)年、畿内の国境十カ所に疫神をまつって疫神はらいを行わせたと『続日本紀』が記していますが、摂播国境のこの地もその一つです。 在原行平や源義経も祈願したといわれています。毎年1月18~20日の厄除祭は盛大で、多くの人が厄払いに訪れます。 | |
電話番号 | 078-741-0827 |
住所 | 神戸市須磨区多井畑字宮脇一番地 |
北向厄除八幡神社 | |
源平合戦のとき、那須与市宗隆がこの神社を守護神として戦場にのぞみ、武運をまっとうしました。 その後、与市はお礼のため再びこの地を訪れ参詣しましたが、たまたま病にかかり、この地で死去したという伝説があります。1921(大正10)年ごろ、境内に与市をまつる那須神社を勧請しています。 | |
住所 | 神戸市須磨区妙法寺字岡 |
勝福寺 | |
988(永延2)年、太政大臣藤原伊尹(これただ)の三男、藤原英雄丸が勅命により、「証楽(しょうらく)上人(しょうにん)」と名を改め、高取山麓に庵を建て、鹿松峠(かのししまつとうげ)に出没していた鬼人を仏教の力で退散させた後に開いた寺といわれています。ここには、平清盛寄進と伝えられる国指定重要文化財である密教法具があります(閲覧は不可)。また、清盛の築島... | |
住所 | 神戸市須磨区大手町9丁目1-1 |
前田家と菅の井 | |
菅原道真が左遷される道中に須磨に上陸した際、須磨の旧家・前田家から井戸の水をくんで差しあげたところ、大いに喜ばれて自画像を前田家に与えたといわれています。前田家では、その井戸を「菅の井」と名付け、この水で銘酒「菅の井」を作って毎年太宰府天満宮へ献上していたと伝えられています。また、「菅公手植えの松跡」などの史跡もあります。 | |
住所 | 神戸市須磨区天神町5丁目2 |