歴史を知る
上のカテゴリへ地図表示
並び替え | | | タイトル | | | 日時 | | | ヒット数 | | |
板宿八幡神社 | |
菅原道真が九州の大宰府に左遷される途中、休まれた時の跡地に、武神八幡大神と道真を鎮守神としてまつったと伝えられています。境内には、道真を慕って京都から飛んできたといわれている大きな松「飛び松」の切株が残っています。 この社から西に続く丘陵は、飛び松にちなんで「飛び松岡」あるいは「松岡」と呼ばれていました。 | |
住所 | 神戸市須磨区板宿町3丁目15-25 |
松風村雨堂 | |
平安時代、在原行平が須磨にわび住まいした際、多井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」に出会い、二人を「松風」・「村雨」と名付けて愛しました。行平が都に帰った後、姉妹は、行平の住居のかたわらに庵をむすび、行平の無事を祈りました。 現在の堂は、その庵の跡だと伝えられています。 | |
住所 | 神戸市須磨区離宮前町1丁目2 |
松風村雨の墓 | |
須磨にわび住まいした在原行平が愛した多井畑の村長の二人の娘の墓です。多井畑厄除八幡宮の西200mの広場の一隅にある五輪塔二基で、左が姉の「もしほ」(松風)、右は妹「こふじ」(村雨)のものと伝えられています。 | |
住所 | 神戸市須磨区多井畑字東所 |
村上帝社 | |
平安時代の琵琶の名人藤原師長(もろなが)は、中国に渡りなおも琵琶の奥義をきわめたいと願い、都を出て須磨まで来ました。しかし、この地に泊まった夜、琵琶の名人である村上天皇と梨壺女御(なしつぼにょうご)の霊が現れ、師長に琵琶の奥義を伝えたので、師長は中国行を思いとどまり、「獅子丸」という琵琶を埋めて都に帰ったという伝説があります。この村上天皇にま... | |
住所 | 神戸市須磨区須磨浦通4丁目8 |
旧和田岬灯台 | |
1884(明治17)年に、それまでの木造灯台を鉄骨に改築したものです。 明治期の鉄骨灯台としては、現存する最古の灯台です。もとは和田岬(兵庫区)にあったものですが、1963(昭和38)年に廃灯になったあと、永久保存するため、翌年、現在の須磨海浜公園の西端に移設され、“赤灯台”と呼ばれています。 | |
住所 | 神戸市須磨区須磨浦通1丁目1 |
旧住友別邸門柱 | |
住友家第15代当主、住友友純が1893(明治26)年、海辺の約1300坪の土地に別荘を建て、須磨の別荘地開発の草分けとなりました。 1903(明治36)年には別荘の隣に洋館の別邸を新築しました。別邸は1945(昭和20)年の戦災で焼失し、跡地に須磨海浜公園が整備されました。 現在は、別邸の門柱のみが当時の面影を残します。 | |
住所 | 神戸市須磨区須磨浦通1丁目1 |
敦盛塚 | |
平敦盛の供養のため建てられたという大きな五輪塔。北条貞時が平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれていたものが「あつもり塚」と呼ばれるようになったという説もあります。敦盛は、一の谷の合戦で源氏の武将の熊谷直実に討たれ16歳で命を落としました。大正時代には、子供の病気の神様として信仰され、お礼参りには敦盛愛用の「青葉の笛」になぞら... | |
住所 | 神戸市須磨区一ノ谷町5丁目4 |
慶雲寺 | |
湊川の戦いの時、足利尊氏の陣へ飛んでくる矢を拾う僧が現れ、味方をまったく傷つけなかったために、尊氏軍の勝利に終わりました。尊氏は、それを日ごろ信仰してきた兵庫にある魚御堂の地蔵の化身と考え、矢拾い地蔵として車の地に移し、その仏像をまつる寺を創建しました。1953(昭和28)年の火災により、「矢拾い地蔵」は焼失しました。 | |
住所 | 神戸市須磨区車字松ヶ原532 |
弘法の井戸 | |
妙法寺谷野にある、弘法の井戸です。夏のある暑い日、妙法寺村に立ち寄られた弘法大師が、村人に水を所望しましたが、妙法寺村には湧き水の出るようなところがなく、飲み水に困っていました。その話を聞いた弘法大師はたいへん心を痛めて、手にした杖でトントンと大地をついたところ、きれいな水が湧き出てきたと言われています。弘法の井戸の伝説は各地に点在して... | |
住所 | 神戸市須磨区妙法寺字谷野 |
平重衡とらわれの松跡 | |
源平合戦に際して、東門生田の森を守った平重衡(清盛の五男)は源氏の軍勢を防ぎきれず、西に遁走しましたが、西須磨で源範頼の家来に生け捕られてしまいました。松の根に腰をおろして無念の涙を流す重衡を見て、村人が濁酒を一杯さしあげたところ、重衡は非常によろこんで、「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ」と、一首を詠んだと伝えら... | |
住所 | 神戸市須磨区須磨寺町1丁目13 |