歴史を知る
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並び替え | | | タイトル | | | 日時 | | | ヒット数 | | |
慶雲寺 | |
湊川の戦いの時、足利尊氏の陣へ飛んでくる矢を拾う僧が現れ、味方をまったく傷つけなかったために、尊氏軍の勝利に終わりました。尊氏は、それを日ごろ信仰してきた兵庫にある魚御堂の地蔵の化身と考え、矢拾い地蔵として車の地に移し、その仏像をまつる寺を創建しました。1953(昭和28)年の火災により、「矢拾い地蔵」は焼失しました。 | |
住所 | 神戸市須磨区車字松ヶ原532 |
旧和田岬灯台 | |
1884(明治17)年に、それまでの木造灯台を鉄骨に改築したものです。 明治期の鉄骨灯台としては、現存する最古の灯台です。もとは和田岬(兵庫区)にあったものですが、1963(昭和38)年に廃灯になったあと、永久保存するため、翌年、現在の須磨海浜公園の西端に移設され、“赤灯台”と呼ばれています。 | |
住所 | 神戸市須磨区須磨浦通1丁目1 |
旧住友別邸門柱 | |
住友家第15代当主、住友友純が1893(明治26)年、海辺の約1300坪の土地に別荘を建て、須磨の別荘地開発の草分けとなりました。 1903(明治36)年には別荘の隣に洋館の別邸を新築しました。別邸は1945(昭和20)年の戦災で焼失し、跡地に須磨海浜公園が整備されました。 現在は、別邸の門柱のみが当時の面影を残します。 | |
住所 | 神戸市須磨区須磨浦通1丁目1 |
北向厄除八幡神社 | |
源平合戦のとき、那須与市宗隆がこの神社を守護神として戦場にのぞみ、武運をまっとうしました。 その後、与市はお礼のため再びこの地を訪れ参詣しましたが、たまたま病にかかり、この地で死去したという伝説があります。1921(大正10)年ごろ、境内に与市をまつる那須神社を勧請しています。 | |
住所 | 神戸市須磨区妙法寺字岡 |
鏡の井 | |
須磨にわび住まいした在原行平は、汐汲みに来ていた多井畑の村長の二人の娘を松風・村雨と名付け愛したとされています。 多井畑には二人が水鏡として使ったといわれている泉があり、「鏡の井」と呼ばれています。 | |
住所 | 神戸市須磨区多井畑字筋替道 |
大歳神社(白川) | |
一条天皇の995(長徳元)年、この山村に疫病が大流行したので、須佐之男(すさのおの)命(みこと)を迎えて疫病退散を祈願したといわれていますが、もとは、「トシ」(古語で米を意味する)の神をまつる社です。 | |
住所 | 神戸市須磨区白川字宮ノ西 |
大歳神社(車) | |
646(大化2)年に孝徳天皇が創立したといわれ、もとは三木街道の南の地に鎮座していました。 社殿が非常に壮大であったので「大堂(おおどう)」と呼ばれていたのがなまって、今の「車(くるま)大道(おおどう)」になったといわれています。毎年1月14日の夜には、「お面式」と呼ばれる豊作願いの行事である「翁舞(おきなまい)」が演じられます。 この翁舞は、江戸時代以前... | |
住所 | 神戸市須磨区車字松ヶ原 |
板宿八幡神社 | |
菅原道真が九州の大宰府に左遷される途中、休まれた時の跡地に、武神八幡大神と道真を鎮守神としてまつったと伝えられています。境内には、道真を慕って京都から飛んできたといわれている大きな松「飛び松」の切株が残っています。 この社から西に続く丘陵は、飛び松にちなんで「飛び松岡」あるいは「松岡」と呼ばれていました。 | |
住所 | 神戸市須磨区板宿町3丁目15-25 |
安徳帝内裏跡伝説地 | |
安徳天皇は、平清盛の娘の建礼門院徳子を母として生まれた悲劇の幼帝です。1180(治承4)年に2歳で即位しましたが、 1185(寿永4)年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡とともに祖母二位尼にいだかれて入水したと伝えられています。この伝説地には、一時内裏がおかれたとのいい伝えがあり、 安徳天皇の冥福を祈って安徳宮がまつられています。 江戸時代には松尾芭蕉も訪れています... | |
住所 | 神戸市須磨区一ノ谷町2丁目6 一の谷公園内 |
敦盛塚 | |
平敦盛の供養のため建てられたという大きな五輪塔。北条貞時が平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれていたものが「あつもり塚」と呼ばれるようになったという説もあります。敦盛は、一の谷の合戦で源氏の武将の熊谷直実に討たれ16歳で命を落としました。大正時代には、子供の病気の神様として信仰され、お礼参りには敦盛愛用の「青葉の笛」になぞら... | |
住所 | 神戸市須磨区一ノ谷町5丁目4 |